すべての人間の関係性の中で兄弟って特別ですよね?
特に、兄か弟のどちらかが出来が良いと、それだけで小さなドラマになります。
まぁ、王道の「タッチ」に限らず、最近では「宇宙兄弟」「キングダム」では、
秦王政と弟の成蟜(せいきょう)等、兄弟を扱った作品は多く名作も多いです。
三国志の中にも、もちろん、兄弟で登場する人達がいます。
また、兄弟の数だけ、その末路も関係性も様々です。
今回は、そんな三国志に登場する兄弟達を紹介していきますよ。
この記事の目次
犬猿の仲、袁術(えんじゅつ)と袁紹(えんしょう)のエリートブラザーズ
三国志に登場する兄弟の中で一番仲が悪いと言えば、この二人でしょう。
袁紹は袁術の従兄弟とも言われますが、一方では、袁逢(えんほう)の庶子とも言われ
そうなると、袁術とは異母兄弟という事になります。
この二人の場合、庶子の出で、袁術よりもランクが落ちる袁紹が、
袁術よりも人望と才能があった事がトラブルの元でした。
プライドの塊だった袁術は、袁紹に嫉妬して、
その生母の身分が卑しい事を事あるごとに吹聴したので、
袁紹も次第に袁術を憎むようになります。
二人は、反董卓連合軍の解散後は兄弟でありながら敵同士になり
袁術は、公孫瓚(こうそんさん)、孫策(そんさく)、呂布(りょふ)と結び、
袁紹は、曹操(そうそう)、劉表(りゅうひょう)、劉備(りゅうび)などを使って、
勢力争いを繰り広げました。
その後、没落した袁術は、北方の雄に成長していた袁紹を頼って逃げますが
それを阻止しようとした、曹操により朱霊(しゅれい)と劉備の攻撃で
阻まれ果たせず孤独に餓死しました。
もし、亡命が上手く行っていれば、兄弟の和解は出来たでしょうか?
実力伯仲、孫策(そんさく)と孫権(そんけん)の兄弟
三国志の中で一番、有名な兄弟は、孫策(そんさく)と孫権(そんけん)の二人の兄弟です。
孫策は、江東の小覇王と呼ばれた勇猛な人物であり、
孫権は、孫策から受け継いだ呉の領地を守り、拡大した人物です。
父、孫堅(そんけん)は、孫策17歳、孫権10歳の時に戦死しているので、
孫策は、孫権の兄であるばかりではなく、父の代わりでもありました。
孫堅が死んだ時、その勢力は袁術に吸収され、孫策はその客将という
惨めな状態からの再スタートでした。
しかし、孫策は、その状態から父の家臣をまとめて兵を興し
劉繇(りゅうよう)討伐を名目に、袁術から離脱して独立しています。
その為に、兄弟喧嘩などというゆとりもなく、実力が拮抗する程で
あったにも関わらず、勢力争いとも無縁です。
もっとも、孫権18歳の時に、孫策は刺客に襲われて、
死んでいますから、権力の継承はすんなりと行われました。
もし、孫策が死ななければ、その後、成長した孫権との間で、
深刻な権力の確執が起きたかも知れません。
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慎重な兄と野心家の弟の悲劇 張粛(ちょうしゅく)と張松(ちょうしょう)
張粛と張松は、いずれも益州牧の劉璋(りゅうしょう)に仕えた人物です。
しかし、地味で職務を淡々とこなす兄の張粛に反比例して、
張松は、上昇志向が強い、裏を返せば不満家でした。
兄の張粛は、曹操の荊州平定を慶賀しに向かい、直接に広漢太守に
任命されるなどしましたが、張松は、同じく曹操の使者になっても
冷遇され、官位一つ貰えませんでした。
兄よりも才能豊かであった張松は、これを不満に思って、
劉璋に説き、劉備に接近してゆく事になります。
その張松は、劉璋の配下では、これ以上の出世は望めないと、
劉備を益州に引き込んで、劉璋を倒させて、その手柄で出世しようとします。
ところが、それを張松の手紙で知った兄の張粛は、禍いが自分達にまで
及ぶのを恐れて、劉璋に弟の計画を密告してしまいます。
劉璋は激怒し、張松の家族を皆殺しにしてしまいました。
これは、兄弟の性格の違いが産んだ悲劇と言えるでしょう。
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弟の不始末を気にして病死 縻竺(びじく)・縻芳(びほう)兄弟
縻竺は、徐州でも有数の資産家で、召使が1万人もいたと言われます。
最初は、陶謙(とうけん)に仕えますが、その後は劉備に兄弟で仕えました。
劉備が、呂布に本拠地を奪われて、小沛で孤立した時には、
私財をはたいて救援し、劉備はこれで立ち直る事が出来たと言われます。
劉備は、その事を深く感謝し、縻竺の官位は、孔明より上で、
劉備旗揚げ時の家臣よりも上位でした。
最後まで劉備に忠義を尽くした縻竺と違い弟の縻芳には、違う人生がありました。
関羽(かんう)の配下にあった彼は、自他共に厳しい関羽に嫌われていたのです。
或る時には、火の不始末から南郡城内で火災が起きて、武器が少し燃える
という被害がありましたが、それを聴いた関羽は激怒し、
「戻ったら厳しく処罰してやる!」と言い捨てていました。
震えあがった縻芳は、同僚の傅士仁(ふしじん)と共に、
孫権の内応に応じて、関羽を裏切って見殺しにし、
それ以後は呉の武将になっています。
兄の縻竺は、弟の不始末に激怒し自らを鞭打って、劉備にまみえて、
「どうか弟の不始末の咎で、私も処罰して下さい」と言います。
劉備は、「縻芳の罪はそなたの罪ではない」と宥めますが、気持ちが治まらない
縻竺は、気に病んで健康を損ねて、1年後に死んだそうです。
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皇帝の位を巡り、歪んでしまった兄弟愛 曹丕(そうひ)、曹植(そうしょく)
曹丕と曹植は、年齢は5歳違いで、曹丕が兄にあたります。
いずれも曹操がもっとも信頼した卞(べん)夫人の子です。
卞夫人は元々正妻ではなかったので、曹丕も曹植も皇位には、
遠い存在でしたが、丁夫人が、曹昂(そうこう)の死から曹操と疎遠になると
曹操は丁夫人を離婚して、卞夫人を正妻にします。
ここから、二人の兄弟関係には、皇位が影響を与えます。
曹操が中々、継承者を決めなかった事や、曹丕と曹植も後継者と目された事で
仲が悪いわけでもなかった二人には、それぞれの派閥が出来て行きます。
結局、曹操の死後は、曹丕が継ぎ、間もなく皇帝になりますが、
曹植は、それを素直に祝福できず、滅んだ後漢皇帝の為に哭礼を行う
という当てつけを行いました。
曹丕は、激怒して、弟を一度は殺そうと考えますが、
母の卞夫人の嘆願で思いとどまります。
代わりに、曹植が決して、政治に参画できないように彼の提案を黙殺し
何度も、所領を変更させて、弟が地盤を持てないようにしました。
曹丕は、息子の曹叡(そうえい)にも、曹植を用いないように遺言して死去、
曹植は、せめて親族間の交流を認めてくれるように甥の曹叡に
何度も手紙を出しますが、それも認められず、西暦230年には最愛の母、
卞夫人も死去、それから二年後に曹植は酒に溺れて病を発し
41歳で寂しく死にました。
もし、皇位など関係ない地位に生まれたら、二人の兄弟は、
案外、仲良く生涯を送ったかも知れません。
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最後まで弟を庇った兄、袁煕(えんき)と袁尚(えんしょう)
袁譚と袁尚と言えば、袁紹の死後、激しく袁家の後継者の地位を争った
犬猿の仲として有名ですが、袁紹には、もうひとりの息子がいました。
幽州刺史に任命されていた、次男の袁煕です。
袁煕は、後継者の資格がありながら、兄弟の争いに参加せず、
幽州の安定に努めていました。
しかし、それが処世術かと思えばそうでもなく、曹操に敗れた袁尚が、
袁煕を頼ると、曹操に睨まれるリスクを負いながらこれを庇います。
案の定、曹操の巻き添えを恐れた、幽州の豪族が袁煕に反乱を起したので
袁尚と袁煕は逃亡し、烏桓(うかん)族を頼って北へ落ちのびていきました。
西暦207年、曹操は、呉討伐の前に北の脅威を除こうと、烏桓討伐を決行。
袁尚と袁煕は、最後まで戦いますが、勝てず、さらに北の遼東、公孫康を頼ります。
しかし、曹操の攻撃を恐れた公孫康(こうそんこう)は、二人を歓迎するふりをして
騙し捕え首を斬って、曹操に送りました。
首を斬られる時、袁尚は寒いので筵を要求しますが、
袁煕はそれをたしなめています。
「これから、我々の首は万里を旅するのだ、寒いなどと言っていられようか?」
袁煕は、すでに覚悟を決めていたのです。
もしかしたら、逃れてきた袁尚を匿った時から、
こうなる事を覚悟していたのかも知れませんね。
兄弟でも、利害の為には、殺してしまう乱世で、最後まで弟を庇い、
運命を共にした袁煕の人生は、ひときわ輝きを放っています。
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兄は才気煥発で傍若無人、弟は趣味人でマイペース 諸葛恪・諸葛融兄弟
諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の偉大な兄として有名な、
諸葛瑾(しょかつきん)の息子として、諸葛恪(しょかつ・かく)、
そして、弟に諸葛融(しょかつ・ゆう)がいます。
この二人は兄弟ながらも、性格がバラバラでした。
兄の諸葛恪は、幼い頃から才気渙発、すべてにおいてオレオレタイプで、
相手が誰であっても、カッとすると言い返さないと気がすまない人でした。
大変な博覧強記でしたが、性格にはムラがあり、大雑把、父の諸葛瑾に、
その将来を心配されたばかりか、叔父である孔明も陸遜(りくそん)に宛てて、
「元遜(げんそん:諸葛恪の字)は、大雑把であるから、
兵糧の管理などの仕事を任せてはいけません」
と、いかにも、几帳面な孔明らしい注意を与えています。
一方の諸葛融は、兄のような自己主張の塊とは無縁のマイペース人間。
恵まれた家庭で、愛されて育ったので、自己承認欲求が薄い趣味人で
性格は寛大そのもので、大らかであったとされています。
いつも豪華な衣服を身にまとい、当時流行していたスポーツは残らず行い、
諸葛一族らしく、大変な物識りでしたが、知識は不正確だったようです。
父の諸葛瑾が死去すると、公安という魏との国境地帯の守備を任されますが、
春夏は狩猟、秋冬は各種のゲーム大大会を開く、遊びの達人で、
彼のゲームに参加する為に、公安に出向く人もいる程に人気を集めました。
彼が公安に駐屯している頃、兵士も役人も皆、諸葛融に懐き、
国境は珍しく、平穏な空気に包まれていたと言われます。
しかし、兄の諸葛恪が、孫峻(そんしゅん)に誅殺されると、
諸葛融にも捕縛する為の軍勢が向かってきました。
それを知った諸葛融は、驚き、慌てるばかりで為す術を知らず、
最後には、毒を飲んで死んでしまったようです。
それぞれ、自分の道を進んで最後を迎えた、諸葛恪と諸葛融兄弟、
どちらかというと、諸葛融は、兄の勝気さの割を喰ったと言えますね。
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弟を立てた偉大な兄 司馬朗(しばろう)・司馬懿(しばい)兄弟
司馬懿(しばい)の兄弟は、厳格な父、司馬防の教育のお陰で、いずれも有能で、
司馬の八達と言われたという事は知られています。
その中でも、司馬懿の長兄である司馬朗は、長男として特に厳しく躾けられ
厳格でありながらも、弱者に優しい暖かい性格に育ちました。
西暦190年の事、洛陽に出仕していた司馬朗は、董卓(とうたく)が洛陽に入り、
横暴に振る舞うようになると危険を感じ、父の指示を受けて、
一族全員で故郷の河内郡温県に帰還しようとします。
しかし、偶々、これを知って、董卓に讒言する人がいて司馬朗は、
董卓の前に引き立てられました。
董卓「君の年齢は、先年亡くなった、私の息子と同じだ、、どうして、
私を見捨てて、故郷に帰ろうとするのかね?」
すると司馬朗は、
「乱世の影響で、我が故郷も退廃しております、放置しておけば、
民は飢える事になります、捨てては置けません」
と堂々と答えたので、董卓は何も言えず、司馬朗を解放します。
しかし、相変わらず、董卓は司馬朗を帰還させようとはしないので、
彼は、董卓の側近を買収して、洛陽を抜けだしたそうです。
このように司馬朗は、常に堂々としていて、人に畏敬の念を抱かせました。
彼の活躍の場は、戦場ではなく、行政官としてでしたが、
常に、民には温情を施して、善政を敷いたので、評判が高かったのです。
やがて、弟の司馬懿が曹操に見出されて、出世していくと、
同僚で仲が良かった崔琰(さいえん)が、
「君の才能は、弟には及ばないようだ」と言いましたが、
司馬朗は、少しも怒る事もなく、崔琰が司馬懿を褒めてくれるのを
喜んでいたと言われます。
そんな司馬朗は、217年、夏侯惇(かこうとん)に従軍して、呉の討伐に向かいますが、
その戦場で風邪が大流行しました。
司馬朗は、薬を優先して兵士に分け与え、自分は飲まなかった為に、
風邪が悪化して、死んでしまったと言われています。
後年に司馬懿は、兄の司馬朗を振り返り、
「私は、人格ではとても兄には及ばなかった」と言ったそうです。
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三国志ライター kawausoの独り言
今回は、三国志に登場する様々な兄弟について、書いてみました。
兄弟にも、色々なタイプが存在していて、曹丕と曹植のように兄弟で争うケースや、
袁煕と袁尚のように最後まで兄が弟を庇ってしまうケース、張粛のように、
弟の暴走にブレーキを掛けてしまうケース、諸葛恪のように弟が兄の為に、
とばっちりを受けたりするケースと、実に様々な事が起きていますね。
皆さんの兄、或いは弟は、どんなタイプに当てはまりますか?
本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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