三国志において、最も覇者に近かった男は誰でしょう?
官渡の戦いの以前ならば、それは、紛れもなく袁紹本初の事を意味していました。
有能な家臣と家柄に恵まれ、曹操を苦しめ続けた最大の障壁、袁紹(えんしょう)、
この人物の生涯を正史ベースで追ってみましょう。
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この記事の目次
- 袁家の名門、袁紹の少年時代
- 20歳で濮陽県長になるも、父と母の死で六年の喪に服す
- 洛陽に戻った袁紹は高名な人士と交わり人望を集めていく
- 物騒な人間も養っていた袁紹は、宦官に嫌われる
- 何進に近づく袁紹は宦官の影響力排除を狙っていた
- 西園八校尉には、宿敵になる曹操も名を連ねていた
- 霊帝死去、袁紹、宦官を滅ぼそうと策動する
- 何進は、十常侍に先手を打たれ滅ぼされる
- 袁紹激怒、警察権力を宮中に突入させ、宦官を皆殺しにする
- 騎都尉の鮑信、袁紹を諌める!
- 袁紹、董卓に反抗して、洛陽を脱出
- 董卓は袁紹を殺そうとするが、考えを変える
- 袁紹、渤海で挙兵! 洛陽の袁家は皆殺しにされる
- 諸候連合軍、袁紹の統率力の無さで崩壊する
- 三国志ライターkawausoの独り言
- 袁紹、渤海(ぼっかい)太守の地位を公孫瓚に奪われる
- 袁紹、韓馥の領地の冀州を奪う!!
- 袁紹、北の覇王への道、公孫瓚との戦いに向かう
- 実は、荀彧も郭嘉も袁紹にスカウトされたが・・
- 麴義(きくぎ)、袁紹軍の先鋒として公孫瓚軍に立ち向かう
- 冀州刺史、厳綱(げんこう)戦死、公孫瓚軍は総崩れに!
- 袁紹、兜鎧を叩き捨てスパルタ張りの大絶叫!
- 袁紹、返す刀で黒山賊を撃破し、公孫瓚を引きこもらせる
- 袁紹配下だった曹操、袁紹から自立
- 鮑信、曹操の下にやってきて袁紹から自立するように誘う
- 呂布も同時期、袁紹の配下になり殺されかけた・・
- 公孫瓚、劉虞(りゅうぐ)を殺す、袁紹公孫瓚を易京に追い詰める
- 袁紹、献帝を迎え損なう・・
- 献帝を取られた袁紹、曹操の政治に干渉してくる・・
- 曹操が張繍(ちょうしゅう)を攻めあぐねている間に袁紹が・・
- 三国志ライターkawausoの独り言
- 袁紹、長年の宿敵であった公孫瓚を易京(えきけい)に滅ぼす
- 西暦199年 袁紹、易京を陥落させる
- 呂布と袁術と張繍相手に苦戦する曹操を袁紹が誘惑する
- つい、誘惑に乗りそうになった曹操だが・・
- 曹操、袁術、呂布、張繍を撃破し、袁紹に立ちはだかる・・
- 袁紹との対立、最初の切っ掛けは袁術
- 袁紹、子供の病気を理由にチャンスを逃す・・
- 曹操、袁紹が動かないと見るや劉備を撃破!
- 袁紹軍、短期決戦か長期戦かで幕僚達が大揉め
- 田豊は飽くまでも、長期戦を主張して投獄、沮授は兵権を分割される
- 袁紹、白馬(はくば)・延津(えんしん)の戦いで出鼻を挫かれる
- 袁紹、大軍で官渡城を包囲、苦しくなる曹操
- 時間が過ぎる程に少なくなる食糧、曹操は弱気になる
- 荀彧、曹操を叱り、励ます!!
- 曹操、こまめに夜襲を繰り返し、兵糧を奪う
- 許攸、曹操の本拠地の奇襲を提案するが・・
- 曹操、許攸の情報を信じ決死の一手に出る
- 袁紹、天下の覇者から一夜で転落する
- 袁紹の最期・・
- 三国志ライターkawausoの独り言
袁家の名門、袁紹の少年時代
袁紹本初(えんしょう・ほんしょ:154?~202年)は、
後漢において四代にわたり、三公を出した汝南袁家に生まれます。
三公とは、司徒(しと)、司空(しくう)、大尉(たいい)を意味し行政職の最高位でした、
今で言えば、官房長官や総理大臣、防衛大臣、財務大臣でしょう。
袁紹は、袁成(えんせい)と側室の母との間に生まれますが、
父袁成は袁紹が幼い頃に亡くなります。幼い袁紹は、当時のしきたりに従い、
叔父の袁逢(えんほう:袁術の父)と袁隗(えんかい)に養育されます。
ただ、これは魏の王粲(おうさん)の英雄記の記録で、魏書では、
袁成は袁紹の叔父で、袁紹自身は袁逢の庶子という事になっていて、
若くして死んで、子のなかった袁成の家を袁紹が相続したそうです。
正史三国志の註を書いた裵松之(はいしょうし)もどちらが正しいか不明としています。
もし、袁逢の実子が袁紹であれば、袁逢の子は袁術ですから、
袁紹と袁術は従兄弟ではなく、異母兄弟という事になります。
20歳で濮陽県長になるも、父と母の死で六年の喪に服す
袁紹は、20歳で孝廉に推挙されて、濮陽(ぼくよう)県の県長になります。
県長は、村長クラスの行政長官を意味しています。
いかにもエリートらしい恵まれたスタートを切る袁紹ですが、
間もなく母が亡くなったので袁紹は官を辞して三年間の喪に服します。
三年間を過ぎると、今度は父の袁逢が亡くなったので、再び、
三年の喪に服し、六年という長い間、喪に服する事になりました。
洛陽に戻った袁紹は高名な人士と交わり人望を集めていく
六年の喪が明けると、袁紹は洛陽で、高名な人士と交遊を深めてゆきます。
袁紹は、体が大きく、容姿も立派で威厳もあり、名門でありながら、
交遊を持つ人々の間では、身分の高さをひけらかさず、謙虚でさえありました。
その為に家柄も良さも手伝い、少しでも名のある人々は、
袁紹との交際を求め門前には、来客の車が絶える事は無かったそうです。
従兄弟、(または異母兄弟)の袁術は、そんな袁紹の名声に嫉妬して、
事あるごとに、「知ってる?袁紹の生母の身分は卑しいだぜw」と
dis発言を繰り返し、さらに人望を失っていったというのは有名な話です(笑)。
物騒な人間も養っていた袁紹は、宦官に嫌われる
そんな人気を博していた一方で、袁紹はイザと言う時に、
鉄砲玉として働く壮士も大勢養っていたようです。
十常侍で宦官の趙忠(ちょうちゅう)は、そんな袁紹を見て苦々しく思って
口ぐちに宮中で言いふらしました。
趙忠「袁逢の倅(せがれ)は、座ったまま名声を買い、命知らずの壮士を
沢山抱えておる、すえ恐ろしい、将来は何をしでかすか分からんぞ」
叔父だった、太傅(たいふ)の袁隗は、それを伝え聴き、袁紹に注意します。
袁隗「本初、、お前は派手な事をし過ぎる、今から宦官共に睨まれてどうする
わが一族を滅ぼすつもりか!少しは慎め」
当時の後漢王朝では、霊帝(れいてい)が宦官を重用しており、
行政の最高職である袁家でさえ、その動向には気を使っていたのです。
この事もあり、袁紹は宦官を憎む事尋常では無く、
いつか連中を排除しようと執念を燃やし続けていました。
袁紹は叔父の叱責を受けて、考えを変え、今まで拒否していた任官を受けて、
大将軍、何進(かしん)の部下になります。
何進に近づく袁紹は宦官の影響力排除を狙っていた
何進は、元々は身分の低い屠畜業者でしたが、商売が大成功し、
妹を霊帝の後宮に入れ、子供が産まれるに至って重用されるようになります。
実際には、名門である袁紹にとっては、宦官と同様の成り上がり者ですが、
宦官を激しく憎んでいる袁紹は、これに積極的に近づき、宦官の勢力排除を
考えていたようです。
袁紹「国を腐らせる毒虫共、今にみていろ、残らず燻し殺してやるぞ」
袁紹は、とんとん拍子に出世をし、侍御史(じぎょし)、虎賁中郎将、
(こほんちゅうろうじょう)そして、霊帝が皇帝直属の近衛兵団、
西園八校尉(せいえんはちこうい)を設置すると一軍を任されて
左軍校尉(さぐんこうい)となります。
西園八校尉には、宿敵になる曹操も名を連ねていた
この西園八校尉には、後に宿敵になる曹操(そうそう)も、
典軍(てんぐん)校尉として任命されています。
また、官渡の戦いで烏巣を守りきれず、大敗の原因を造った
淳于瓊(じゅんうけい)も、右校尉として名前を連ねていました。
西園八校尉の大将は、宦官の蹇碵(けんせき)でしたが、
何進は、八校尉の大将には、黄巾の乱で手柄を立てた自分が任命されると
考えていたようです、それをただ、乱を傍観していただけの宦官が
大将にされた事で、かなりの不満を持ったと言われています。
まあ、それを言いだすと、袁紹も袁術も危険な戦場に出てはいませんし、
何進だって、大将軍として安全な後方で指揮をしただけです。
本当に生命を張り大活躍した曹操は袁紹の部下でしかないのですから、
一番納得できないのは、曹操だったのかも知れません。
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霊帝死去、袁紹、宦官を滅ぼそうと策動する
西暦189年5月、贅沢と宦官任せの腐敗政治を続けた霊帝が死去します。
後継者は何進の妹、何皇后の産んだ、劉弁(りゅうべん)になり少帝として即位しました。
袁紹は、宦官の後盾だった霊帝の死を利用して、十常侍の排除を何進に献策します。
ところが、何進の妹である何皇后にとっては、宦官は手足でもありました。
彼女は、兄の何進に宦官の排除は出来ないと渋ります。
優柔不断な何進も、この絶好の好機に、だらだらと時間を費やすばかりでした。
袁紹「大将軍!名案があります、軍閥の董卓や丁原を呼び寄せましょう。
こうして、宦官を滅ぼさねば軍閥の力を借りて、こちらで滅ぼしてしまうぞ
そう皇太后様に脅しを掛けるのです」
何進は、袁紹の提案に乗り、勅命で董卓(とうたく)や丁原(ていげん)に
洛陽に上るように、命令を出してしまいました。
何進は、十常侍に先手を打たれ滅ぼされる
何進は、袁紹を司隷(しれい)校尉に任じて、洛陽の警察権力を握らせ、
同時に、袁術にも兵権を与えて宦官を全滅させる手筈を整えます。
ですが、追い詰められた宦官は捨て身の攻撃に出て、偽の勅命で、
何進を宮中に呼び出し、これを暗殺してしまったのです。
袁紹激怒、警察権力を宮中に突入させ、宦官を皆殺しにする
上官である何進を殺された袁紹は激怒しました。
袁紹「おのれ!毒虫共め、こうなればヤケだ皆殺しにしてやるぞ!」
袁紹は司隷校尉としての警察権力を使い、兵を引きつれて
宮中に踏み込むと、逃げまどう宦官を皆殺しにしてしまいました。
その数は2000名と言われる大虐殺であり、中には髭がないばかりに、
宦官と間違えられて殺された人々も大勢いました。
しかも、十常侍の張譲(ちょうじょう)は、少帝と弟、劉協(りゅうきょう)を
連れて洛陽を脱出してしまい、洛陽には大混乱だけが残されたのです。
騎都尉の鮑信、袁紹を諌める!
そこへ、最悪のタイミングで勅命に応じた董卓の軍勢が入ってきます。
さらに、馬上の董卓は、張譲が連れ出した少帝と劉協を保護していたのです。
これを見た、騎都尉の鮑信(ほうしん)は、血相を変えて袁紹に言いました。
鮑信「あなたは、何と愚かな事をしているのか!
董卓がどんなに残虐で獰猛(どうもう)な男かご存じないのですか?
今の内に、董卓から兵権を奪ってしまわないと、後で後悔しても
及ばない事になりますぞ」
そう、その時点で兵馬を握る最高責任者は、袁紹でした。
ところが、董卓の軍勢を恐れた袁紹は、つい事態を静観してしまい、
結果、董卓の横暴を許す羽目になるのです。
袁紹、董卓に反抗して、洛陽を脱出
鮑信の言った通り、洛陽に入って暫くすると、董卓は本性を現します。
丁原(ていげん)のボディーガードだった呂布(りょふ)を寝返らせると、
丁原を殺害させ、その兵力を吸収し、司隷校尉の袁紹からも兵を剥ぎ取ります。
こうして、董卓は洛陽の権力を固めると、柔弱な少帝を廃し、
利発な劉協を帝にすると宣言します。
袁紹は、これに猛反発し、
「こんな大事な事を、あなた一人で決めるのは間違っている
ちゃんと三公に相談して決めるべきである」と反論します。
それに対して、董卓が怒り、剣を抜いて、威嚇しながら
「後漢王朝は、全て、余の思いのままにするぞ!邪魔をするな!」
と宣言すると、袁紹は、激怒しました。
袁紹「この天下に英傑が自分一人だなどと、思わない事だ!!」
袁紹は、挑発するような言葉を叩きつけると、洛陽を飛び出してしまいます。
董卓は袁紹を殺そうとするが、考えを変える
挑発的な言葉を吐かれた董卓は激怒して、袁紹を賞金首にしますが、
伍瓊(ごけい)という人物が、董卓を諌めます。
「袁家は四代にわたり、三公を輩出する名門であり、天下には袁家に
恩義を感じている人士が大勢おります。今、袁紹を追い詰めて、
挙兵でもされれば、天下の大半は袁紹に従うでしょう」
董卓は袁家が、自分が想像している以上の名門であると知り
袁紹が兵を挙げても厄介だと考え直し、袁紹を渤海(ぼっかい)太守に任じます。
こうして、考えると、袁家の見えない威光が、大変なものである事が分かります。
一方の曹操は、逃亡しても、そんな恩赦はないのですから、圧倒的な家柄の差
というものが見えてきます。
袁紹、渤海で挙兵! 洛陽の袁家は皆殺しにされる
董卓は袁紹を懐柔しようとしますが、袁紹は、小さな渤海太守で人生を終える
つもりはさらさらありませんでした。
時に、西暦190年、東郡太守の橋瑁(きょうぼう)という人物が、
董卓の横暴に憤り、三公の筆跡を真似て董卓誅滅の激文を各地の群雄に送ります。
※三国志演義では、激文を出したのは曹操になっています。
激文は、渤海太守の袁紹にも届き、袁紹は反董卓の旗を掲げて決起します。
全国の群雄にも激文は届き、自然に袁紹を盟主として、従兄弟(或いは異母兄弟)で
後将軍の袁術、冀州牧韓馥(かんぷく)、山陽太守袁遺(えんい)。
東郡太守橋瑁(きょうぼう)、豫州刺史孔伷(こうゆう)、兗州刺史劉岱(りゅうたい)
陳留太守張邈(ちょうばく)、広陵太守張超(ちょうちょう)、
河内太守王匡(おうきょ)、済北相鮑信(ほうしん)等が参加しました。
これだけの大軍が終結したのは、名門袁紹が最初に決起した為でしょう。
実力というよりは、時流と袁家の巨大な影響力が袁紹に味方していました。
董卓は、袁紹が山東で挙兵したと聞くと洛陽に残る袁家一族を皆殺しにして報復しました。
この中には、かつて袁紹に出過ぎた事をするなと注意した叔父の袁隗も含まれています。
こうして、袁紹にとって、董卓は一族の仇であり漢王朝を奪った敵になったのです。
諸候連合軍、袁紹の統率力の無さで崩壊する
集まった反董卓連合軍は、号して20万という大軍で董卓に重圧を与えますが、
実際に、身を呈して、董卓と戦おうとする人間は、曹操や孫堅(そんけん)、
鮑信のような一部の人間に過ぎませんでした。
残りは、董卓を打倒した後の自分の勢力を考えて、兵力を温存し、
いかに、戦わないで済むかしか考えていません。
袁紹は、盟主に祭り上げられましたが、優柔不断で統率力がなく、
反董卓連合軍を引き締める事も出来ませんでした。
やがて、それを察した董卓は、孫堅に追いまくられた事もあり、洛陽を放棄して
都に火をかけると、住民と自分が帝にした献帝を連れて、長安に遷都します。
こうして、モチベーションを低下させた反董卓連合軍は、喧嘩別れを繰り返し
領地に戻り、以後は勢力争いに没頭するようになります。
袁紹も渤海に戻り、反董卓連合軍に加わらなかった公孫瓚(こうそんさん)と
抗争を繰り返していきます。
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三国志ライターkawausoの独り言
袁紹は、名門に生まれ人望もありましたが、
やはり、この時点までは、袁家の威光という力が強かったようです。
彼も、一代の英傑らしく部分、部分では、董卓に刃向かう等、
気骨のある所を見せますが、董卓の兵権を奪えなかったり、連合軍で統率力を
発揮できないなど、後に袁紹を滅ぼす優柔不断さも見えてきていますね。
袁家の名門に生まれた袁紹(えんしょう)は、生まれついた威厳と謙虚さ、
そして袁家の威光を最大限に利用して知名度を高め、後漢王朝をほしいままに
操る董卓(とうたく)に対抗し、反董卓連合軍の盟主になります。
しかし、寄り合い所帯の諸候連合軍は、次第に足並みが揃わなくなり崩壊、
袁紹も、渤海太守に戻り公孫瓚(こうそんさん)と抗争を繰り広げます。
袁紹、渤海(ぼっかい)太守の地位を公孫瓚に奪われる
渤海に戻った袁紹ですが、郡レベルでしかない渤海では、
大軍を養うには小さすぎ、常に兵糧不足に苦しめられていました。
また、隣国の冀州牧の韓馥(かんふく)は、元は袁家の配下でしたが、
常に袁紹を疑い袁紹への兵糧支給を渋るなど袁紹の勢力が崩壊するのを
願うような態度でした。
さらに北方の雄、公孫瓚は、軍事力を背景に渤海太守の地位を、
自分の甥に譲れと袁紹に圧力を掛けてきました。
今は、単独で公孫瓚と戦えない袁紹は無念の思いで渤海から退きます。
これにより袁紹は根拠地を失ってしまうのです。
袁紹、韓馥の領地の冀州を奪う!!
そこで、袁紹の配下であった逢紀(ほうき)は、ここで一発逆転を狙い
韓馥の冀州を奪うべしと進言します。
逢紀「臆病者の韓馥には、所詮天下を狙う器量などありはしません。
ぐずぐずしておれば、公孫瓚に冀州を奪われるは必定です。
ここは、公孫瓚と組んで韓馥に脅しを掛けて、冀州を奪いとりましょうぞ」
袁紹「成程、、韓馥め、、いつも我が軍への兵糧補給をケチるばかりで、
少しも役に立たん、いいだろう冀州は、ワシが頂くとするか」
こうして、袁紹が公孫瓚の重圧を利用して脅しを掛け、さらに、配下の
荀諶(じゅんじん)、高幹(こうかん)を派遣して韓馥を説得します。
耿武(こうぶ)、閔純(びんじゅん)、李歴(りれき)、という韓馥の家臣は、
韓馥が冀州を袁紹に譲ろうと考えていると知ると猛反対します。
「兵力では圧倒的に我が軍は有利なんですよぉ!(泣)
袁紹こそ我が軍の鼻息を窺う立場なんです!分かりますかぁ?
それをおめおめ、冀州を渡すなど、しっかりして下さい」
しかし袁紹も公孫瓚も怖い韓馥は、反対を押し切り、冀州を袁紹に渡します。
ここから、強い相手の意向をおどおどしながら汲み取る事を、
相手の鼻息を窺うという故事成語が産まれました。
袁紹、北の覇王への道、公孫瓚との戦いに向かう
冀州を手に入れた袁紹は、北方の雄、公孫瓚と本格的に対峙する事になります。
当時の公孫瓚は、北方の三州を制覇していて、その勢いに靡かない勢力はありません。
さらに、中央の董卓は、公孫瓚と結託して袁紹を攻撃するよう仕向けたり
青州の黒山賊に物資を援助して袁紹を攻撃させるなど、体がデカイ割には
細かい仕事でちくちく重圧を掛けていました。
八方塞がりの袁紹でしたが、そこで、元、韓馥に仕えていた軍師、
沮授(そじゅ)による天下取りの戦略を聞かされます。
沮授「公孫瓚を倒し、洴州、幽州、冀州、青州の四州を併合し、
その威勢で長安の帝を迎えて洛陽に宗廟を復活させて漢王朝を復興させる
これこそ、あなたが王者になるプランであります」
これを聴いた袁紹は、大いに自信を得て、北方三州を握り袁紹にも何度も
煮え湯を飲ませていた公孫瓚を撃ち破る決意をします。
実は、荀彧も郭嘉も袁紹にスカウトされたが・・
袁紹が冀州牧になった頃、ここには、韓馥と同郷の荀彧(じゅんいく)が来ていました。
しかし、田豊(でんぽう)や沮授と違い、荀彧は袁紹は天下の器ではないと見限り
仕官せず、逆に、当時、袁紹のパシリとして、東郡にいた曹操(そうそう)に会い、
その配下になりますし、郭嘉(かくか)も袁紹を裏では、「クズ」呼ばわりをして嫌い、
曹操に仕えてきました。
麴義(きくぎ)、袁紹軍の先鋒として公孫瓚軍に立ち向かう
西暦192年、4月、公孫瓚は、5万の大軍を率いて袁紹を滅ぼすべく出陣します。
袁紹も、これに対応して六千の兵力で迎撃し、界橋という所で両軍は衝突、
これを後世、界橋(かいきょう)の戦いと呼んでいます。
麴義は、元は冀州の韓馥の配下でしたが、あまりにも意気地のない
韓馥を見限りさっさと袁紹に降伏した猛将です。
彼は、北方の出身であり、騎馬民族の戦闘法に精通していました。
いわば、麴義は呂布や馬超のような存在であり三国志の時代の
サイヤ人みたいな存在だったのです。
公孫瓚は三万の歩兵を中心に左右に一万ずつの騎兵を擁した機動力の高い
軍を配置し、中央の歩兵の前面には、主力の白馬義徒(はくばぎと)を配置します。
それに対して、麴義は、800の歩兵と1000張りの強弩を持って先鋒になります。
しかし、麴義は巧妙に弩兵を大きな盾の下に隠れさせ伏兵をしていました。
公孫瓚は、たった800の麴義の兵を見て失笑します。
公孫瓚「袁紹め、、もはや、我が軍に立ち向かう力は無いと見えるな、、
よし、騎馬隊、前へ、正面の雑魚を蹴散らせィ!!」
公孫瓚は伏兵を見抜けず、自慢の騎兵隊を麴義の部隊に殺到させます。
麴義「掛かったな、、老いぼれ熊め!! 弩兵、攻撃用意!!」
騎兵隊が殺到する直前、盾に伏せていた1000の弩兵が姿を現し、
一斉に矢を連射します。
接近した騎兵隊は、格好の的でした、面白い程に矢が当り、
辺りは、倒れた軍馬と兵士の死体でみるみる埋まります。
麴義は、公孫瓚の本陣に突入して、牙門(がもん)旗(本陣に差す旗)を
引き抜いて放り捨てたので、怖気づいた公孫瓚軍は壊走します。
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冀州刺史、厳綱(げんこう)戦死、公孫瓚軍は総崩れに!
公孫瓚は、直ぐに、退却の命令を出して軍をまとめようとします。
が、、上り調子の袁紹は、この絶好のチャンスを逃がしませんでした。
袁紹「それ、掛かれ!勇気を奮って、わしに続けぇ!!」
六千の袁紹軍は、大混乱している公孫瓚軍に突撃します。
クレイジーな事に先頭を切るのは袁紹でした、これには袁紹軍の兵士の
士気は否応なしに上昇し、公孫瓚軍兵をバタバタと斬り殺します。
混戦の中で、冀州刺史の厳綱は戦死し、公孫瓚は退却を開始します。
ところが、公孫瓚を逃がすまいと深追いした袁紹は、二千名の公孫瓚軍の
兵に周囲を包囲され、無数の矢を浴びせられます。
それを見た田豊は、袁紹を庇って、前に立ち「どうかお逃れ下さい」
と袁紹に脱出を促します。
袁紹、兜鎧を叩き捨てスパルタ張りの大絶叫!
(写真引用元:wall.alphacoders.com)
ですが、アドレナリン出まくりで、ハイになっている袁紹は聴きません。
逆に、兜と鎧を地面に叩きつけて、怒鳴り付けました。
袁紹「バカ野郎!俺は死を覚悟しているのだ、逃げ隠れなどしないぞ!!」
不思議な事に、矢は全て袁紹を避けるように飛んできて当たりません。
その間に先行していた麴義の部隊が戻ってきて合流し、公孫瓚の部隊は、
瞬く間に鎮圧されてしまいました。
この時、袁紹はまさに天の時と地の利を掴んでいたのです。
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袁紹、返す刀で黒山賊を撃破し、公孫瓚を引きこもらせる
界橋の戦いに勝利した、袁紹は、その勢いで黒山賊を鎮圧して、本拠地
鄴(ぎょう)の安全を確保すると董卓が送り込んだ
冀州牧の壹寿(いつじゅ)を捕えて斬殺します。
これにより、冀州牧の印綬を韓馥から強奪していた袁紹は、名門パワーと
実力を行使できる存在になり冀州の郡太守は、こぞって公孫瓚を見限り、
袁紹に仕えるようになりました。
敗れた公孫瓚は冀州の奥に引き上げてしまいます。
以後も、公孫瓚と袁紹の抗争は続くのですが、以後、公孫瓚は引きこもりの
防戦状態になってしまい、袁紹を凌ぐ事は二度とありませんでした。
袁紹配下だった曹操、袁紹から自立
反董卓連合軍の解散後、行く所が無かった曹操ですが、
その頃、袁紹の背後では、黒山賊が暴れ回っていました、
曹操の戦上手を知っていた袁紹は曹操を東郡太守に任命します。
袁紹の中では「器用で便利な男」という印象でしか無かった曹操ですが、
この東郡にいる間に優秀な人材を集めて小さいながら一勢力を築きます。
西暦192年、曹操は、黒山賊を本格的に攻撃して、眭固(すいこ)や
匈奴の於夫羅(おふら)を攻撃して、これを撃破します。
鮑信、曹操の下にやってきて袁紹から自立するように誘う
西暦192年、兗州刺史の劉岱(りゅうたい)が青州黄巾賊の叛乱で
戦死すると、反董卓連合軍で共に戦って以来の中である鮑信(ほうしん)が
やってきて曹操に助言します。
「袁紹は、公孫瓚を破ってから、驕り昂ってきている、君が袁紹の配下として
手柄を立て続けるのは危険で、呂布のように殺されかけんとも限らん。
今、兗州では刺史の劉岱が殺されて州刺史がいない、君がその気なら、
運動して、君を兗州の牧に立てようと思うがどうだ?」
呂布も同時期、袁紹の配下になり殺されかけた・・
この頃、呂布(りょふ)も董卓(とうたく)を暗殺して、
李傕(りかく)、郭汜(かくし)に国を追われて逃げている途中に
袁紹の客将になり、黒山賊を討伐していました。
しかし、その手柄を自慢して部下に好き放題を許し
恨んだ袁紹に殺されそうになり逃亡していたのです。
曹操もいつまでも袁紹の配下で犬のように扱われるのに嫌気が差していたので
鮑信の提案にのり、青州黄巾賊を首尾よく撃破して臨時の兗州牧になります。
こうして、曹操は投降させた青州黄巾賊30万と流民100万を手に入れ、
袁紹とは、一線を画した独自の勢力になるのです。
ただ、この時、袁紹は曹操が兗州牧になるのを認め、袁術が攻めこむと
曹操に援軍を要請したり、以後も曹操が陶謙を攻めると援軍を派遣したりして
助けていますので、いきなり関係が悪化したというわけではありません。
公孫瓚、劉虞(りゅうぐ)を殺す、袁紹公孫瓚を易京に追い詰める
西暦193年、公孫瓚は正式な幽州牧である劉虞を戦争で破り殺害します。
しかし、劉虞は人徳があった為に、遺臣が逃げずに踏みとどまり、
劉虞と友好的だった烏桓(うかん)族を引き込んで公孫瓚に反旗を翻します。
袁紹は、これをチャンスと見て、劉虞の息子の劉和を支援します。
昔、袁紹は董卓に対抗して、劉虞を後漢皇帝に押した時期があります。
そこで、劉虞の死を利用して内戦に介入したのです。
劉虞に恩義を感じる人士は多く、幽州の各地で蜂起し、
烏桓族と合わせて袁紹軍は、総勢で10万という大軍になりました。
劉和は、総攻撃を任され、鮑丘(ほうきゅう)の戦いで、公孫瓚軍を撃破し、
破れた公孫瓚は、本拠地である易京に籠城するしかなくなります。
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袁紹、献帝を迎え損なう・・
西暦196年、長安で横暴を尽くす、李傕(りかく)と郭汜(かくし)の手を逃れて、
この情報は、袁紹軍でもキャッチしていました。
特に、袁紹に天下取りのプランを授けた沮授は、これを天の時と考えて、
袁紹に献帝を本拠地に迎えるように進言します。
しかし、郭図(かくと)と淳于瓊(じゅんうけい)は沮授に猛反対しました。
「今さら、滅亡寸前の後漢皇帝なんか迎えて何になるの?
もう、役になんか立ちゃしないよ!むしろ、こっちの方針に
うるさく口出しされてウザいだけだ!」
袁紹も、この千載一遇のチャンスに乗り気ではありませんでした。
それは、献帝が、董卓が担いだ皇帝であったからです。
初動が鈍かった袁紹は、結局、逸早く動いた曹操に献帝をさらわれます。
弱小だった曹操は、こうして後漢皇帝を迎えて天下の諸侯に命令を出す
という大義名分を得ました。
献帝を取られた袁紹、曹操の政治に干渉してくる・・
献帝なんかいるものかと消極的だった袁紹ですが、曹操がその献帝を迎え、
許(きょ)を仮の帝都にして仰々しく振舞いだすと、それが羨ましくなります。
今まで、自分の子分と考えていた、あのドチビが名目だけとはいえ、
献帝を擁して自分の上に立ったのです、それが悔しくないわけありません。
袁紹「おい、孟徳!献帝を許なんかに置くな、鄄(けん)城に置いておけ!」
袁紹は、まわりくどい事を曹操に要求しますが、要は、
許よりも鄄城のほうが300キロ程、袁紹の勢力下に近いという事でした。
もちろん、曹操がそんな事をOKするわけがありません。
曹操は、袁紹の機嫌を取ろうと、大将軍の地位を献帝から袁紹に与えますが、
それは、ただ、袁紹のプライドを損ねるだけでした。
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曹操が張繍(ちょうしゅう)を攻めあぐねている間に袁紹が・・
西暦197年、女好きの曹操が自分の不始末で、長男の曹昂(そうこう)や
典韋(てんい)を死なせ、仇である宛の張繍を攻めあぐねている頃、
袁紹は、不意に曹操の領地に進攻します。
それは、曹操の留守中に献帝を奪おうというものですが、
曹操は慌てて引き返したので袁紹も退却していきました。
激怒した曹操が袁紹を手紙で非難すると袁紹から返事が来ました。
袁紹「ああ? 公孫瓚を滅ぼす予行演習だよ、体も小さいのに
小さい事で怒るなよぉ 孟徳ちゃんww」
曹操はムキーーーッとなりますが、まだ、呂布や袁術や、張繍と
戦っている最中なので我慢するしかありませんでした。
曹操「ちくしょう!俺が帝を擁したのがそんなに悪い事なのか!!」
曹操が悔しさに涙していると、軍師の荀彧が来て言いました。
「誠にその才あれば、弱と雖も必ず強し」
あなたに天下を治める才能があるなら、今は弱くても、いつかは、
必ず大勢力になりますよ、元気を出して下さいという意味です。
曹操「コーチ!俺やるっす!世界チャンピオンになるっス!」
荀彧「やれや!やったるんや!!」
※矢吹ジョーとダンペイちゃんのイメージ
荀彧の励ましで曹操は、やる気を取り戻しました・・
って・・いつの間にか、曹操の話になってるがな!!
三国志ライターkawausoの独り言
反董卓連合軍の崩壊後、強大な公孫瓚に本拠地渤海を譲る羽目になり
崖っぷちに追い込まれる袁紹ですが、配下の逢紀の進言で、
臆病な韓馥の冀州を奪うという奇策が成功します。
さらには、公孫瓚の優勢な軍勢を、元は韓馥配下の麴義が奇計を使って
撃破して、そこで袁紹も捨て身の突撃をして公孫瓚を大敗させるなど
ええ所の坊っちゃんらしからぬ勇気を奮い袁紹はのしあがっていきます。
しかし、一方で手下と見ていた曹操が自立、さらには献帝を奪い、
天下に号令するなど、日の出の勢いの袁紹に対立する様相を見せていきます。
さて、次回は、いよいよ、袁紹と曹操が激突し、袁紹の最期が描かれます。
献帝(けんてい)を巡り、曹操(そうそう)と小競り合いをしていた
袁紹(えんしょう)ですが、その間にも西暦199年には、長い長い、
戦いの末に、易京を陥落させ、公孫瓚(こうそんさん)を自殺させました。
こうして、袁紹は、洴州、幽州、青州、冀州を手に入れ、三国志で
最も天下に近い男になります。
同じ頃、曹操もやっと袁術(えんじゅつ)と呂布(りょふ)を滅ぼし、
袁紹との対決姿勢を鮮明にします。
袁紹、長年の宿敵であった公孫瓚を易京(えきけい)に滅ぼす
公孫瓚は、鮑丘(ほうきゅう)の戦いで敗北してより、冀州の易京城に籠城していました。
易京は、ただの城ではありません、周囲を十重の堀と城壁で囲み、高い壁を築き、
万の弩を張り巡らせ、300万石という食糧を備蓄した要塞です。
普通に立て籠っても備蓄した兵糧だけで10年は籠城できるという程の、
とんでもない城に公孫瓚は、引きこもっていたのです。
公孫瓚「うぬぬ、、天下の事は、ワシの手には余る、ここは城に立て籠り、
兵糧を食いつぶしながら、情勢が変化するのを待つに限る」
麴義(きくぎ)と劉和(りゅうわ)は、易京城を激しく攻めますが、
貝になった公孫瓚は出て来ず1年半も包囲する間に、両者は疲れ果てて、
公孫瓚に打ち破られました。
麴義は、袁紹が公孫瓚を撃破した界橋(かいきょう)の戦いの功労者でした。
麴義も、それを鼻に掛けて横暴な振る舞いが多く、内心これを
煙たいと考えていた、袁紹は攻城戦の敗戦を理由に麴義を処刑しました。
西暦199年 袁紹、易京を陥落させる
袁紹は、公孫瓚を攻め滅ぼす為に、進撃します。
公孫瓚は、黒山賊の張燕(ちょうえん)と謀り狼煙を合図に袁紹軍を挟撃して
滅ぼそうと計画しました。
ところが、その計画は、漏れていて、袁紹は自分が黒山賊になり済まして、
狼煙を上げると、公孫瓚は城を開けて出て、袁紹軍に散々に打ち破られました。
すっかり怯えた公孫瓚は、城門を堅く閉ざして出てきません。
そこで、袁紹は、大軍で易京を包囲しつつ、トンネルを掘りだします。
易京には、10の城壁と濠がありましたが、袁紹軍のトンネル部隊は、
城壁の下を通過すると、そこで木枠を立てて、これを支え、
次に火をつけて木枠を焼き払います。
その度に、城壁は音を立てて崩れていきます、こうして地味なトンネル作戦は続き
10番目の城壁が崩壊すると丸裸になった山城で絶望した公孫瓚は、
一族を次々に手に掛け、最後は城に火を掛けて自殺してしまいました。
ここに、袁紹は宿敵、公孫瓚を滅ぼし、洴州、青州、幽州、冀州を手に入れて
天下にもっとも近い男になるのです。
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呂布と袁術と張繍相手に苦戦する曹操を袁紹が誘惑する
袁紹が余裕を持って公孫瓚を攻めている頃、曹操は、周囲に、
呂布、袁術、張繍などの敵を抱えて、目が回るような忙しさでした。
本拠地がどれも、戦乱で貧しく、兵糧不足に悩む曹操は、
呂布のような強敵相手の戦いにいつも苦戦を強いられたのです。
それを見てとった袁紹は、曹操に手紙で甘く囁きます・・
「孟徳、もうやめとけ、お前には敵が多すぎるんだよ
俺の本拠地に家族を住まわせれば、兵糧も貸すし昔のように
重く使ってやるぞ、無理をしないで早く楽になったらどうだ?」
つい、誘惑に乗りそうになった曹操だが・・
一番苦しい時期に、こんな手紙を受け取った曹操は
破り捨てる勢いもなく真剣に考え込んでしまいます。
しかし、そんな弱気な曹操を程昱(ていいく)が叱り飛ばしました!!
程昱「あんたが、自分より、ずっと小さい袁紹に従うなら好きにしなさい
もっとも、俺は、袁紹より小物のアンタなんかに仕えないけどね」
曹操「なんだと! くっ、、馬鹿にするな、あんな小物の子分なんか
二度とゴメンだっ!!」
それを聴いた曹操はムッとして、やる気を取り戻したと言います。
曹操、袁術、呂布、張繍を撃破し、袁紹に立ちはだかる・・
苦戦しつづけた曹操ですが、遂に、袁術を殺し、呂布を滅ぼし、
軍師賈詡(かく)を擁する張繍(ちょうしゅう)は、曹操に降伏してきました。
こうして、何とか、外敵を減らした曹操は、長年、避けてきた
最強の敵である袁紹に立ち向かう決意をします。
袁紹との対立、最初の切っ掛けは袁術
西暦199年、度重なる敗戦と飢饉で疲弊した袁術は、親戚である
袁紹を頼り北を目指して落ちのびます。
最初は、若い頃に自分を貶めていた袁術を受け入れる気にならなかった、
袁紹ですが、考えを変えて息子の袁譚(えんたん)を迎えにだそうとします。
しかし、袁紹と袁術が手を組むのを恐れた曹操は、
ここに、劉備(りゅうび)と朱霊(しゅれい)を送り込んで袁術を滅ぼしてしまいます。
それは、袁紹にとっては、宣戦布告に映りました。
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袁紹、子供の病気を理由にチャンスを逃す・・
西暦199年、袁術を討った劉備は、許には帰還せず
徐州刺史車冑(しゃちょう)を殺して、独立し曹操に
反旗を翻し袁紹に援軍を求めてきます。
劉備は、董承(とうしょう)が計画した曹操毒殺計画に
一枚噛んでいましたが、計画はバレて董承は殺されていました。
そこで劉備はどうせ狙われるならと自ら反逆して、
元の領地である徐州を奪還したのです。
田豊(でんぽう)は、これを勝機と見て、袁紹に「劉備に援軍を送り、
曹操の背後を突かせるべしと」進言します。
ところが、何故か袁紹は・・・
「息子の袁尚(えんしょう)が病気で、そんな気になれない」
と理由にもならない事を述べて躊躇します。
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曹操、袁紹が動かないと見るや劉備を撃破!
曹操は、袁紹がグズグズしている隙に軍を取って返し、
劉備を秒殺し、あっと言う間に戻ってきました。
田豊の言う通り、袁紹が劉備を使って曹操の背後を突かせていれば、
或いは、曹操は苦もなく大軍の袁紹軍に屈服したかも知れません。
負けた劉備は、徐州を奪われ、半べそで袁紹を頼って北に逃げて行きました。
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袁紹軍、短期決戦か長期戦かで幕僚達が大揉め
袁紹は自分の優柔不断が絶好のチャンスを逃がした事を後悔し、
いよいよ、曹操討伐を決意して、支配下にある北方四州に檄文を飛ばします。
しかし、イザ、曹操の領内に進攻するとなった時に、
袁紹軍の幕僚達の意見は真っ二つに分かれてしまいます。
田豊(でんぽう)、沮授(そじゅ)は、曹操軍が食糧に事欠く事を利用して、
じっくり長期戦で行く事を主張し、逆に郭図(かくと)と審配(しんぱい)は
短期決戦を主張するのです。
袁紹は圧倒的な軍事力の差がある事もあり、審配、郭図の
短期決戦案を採用してしまいます。
田豊は飽くまでも、長期戦を主張して投獄、沮授は兵権を分割される
ところが、田豊は引き下がりませんでした。
田豊「曹操の兵力を侮ってはなりません、まともに戦わず包囲して、
食糧を断つのです、それだけで数年では勝てるのです。
どうして、お分かりにならないのですか!!」
袁紹は、田豊の言い分に気分を害されて、彼を投獄してしまいます。
曹操と戦う前に、軍師を獄に落す嫌な雰囲気です。
さらに、ここで出ると負け軍師として有名な郭図が、沮授を讒言します。
「沮授は、一人で兵権を背負い過ぎています、万が一、背かれると一大事
分割しておいた方が、良策でしょう・・」
袁紹は、郭図の意見を入れ、沮授に集中していた兵権を三分割し、郭図、
そして淳于瓊にも与えてしまいました。
まだ戦う前の時点から、袁紹軍では、仲間内で反目が始まっていました。
どうして、こいつら、こんなに仲悪いんだと不思議ではありますが・・
これは、曹操軍が苦しい中でも曹操を励まし一枚岩であったのとは、
対照的な状態でした。
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袁紹、白馬(はくば)・延津(えんしん)の戦いで出鼻を挫かれる
袁紹は、西暦200年、遂に軍を南下させます。
袁紹から見れば南征という事になります、兵力は三国志演義では70万、
リアルに考えても15万程度はいたのではないかと考えられます。
一方の曹操は、リアルでは3万か、そこらであったと思います。
しかし、機動力に優れる曹操軍は、官渡の戦いの前哨戦である、白馬・延津の
戦いで、袁紹軍の顔良(がんりょう)と文醜(ぶんしゅう)の二将を討ち取り
大勝利を収めます。
この戦いは、劉備の義弟の関羽が曹操の部下として大活躍する事で有名です。
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袁紹、大軍で官渡城を包囲、苦しくなる曹操
白馬・延津の敗戦は、袁紹のプライドを傷つけました。
ですが、袁紹が大軍を前面に出して、物量で押してゆくと、曹操は押され、
陽武(ようぶ)からジリジリ官渡城に下がって閉じこもり籠城戦を余儀なくされます。
袁紹は貝になった曹操を城から出そうと、櫓を組んで矢を撃ちこんだり、
公孫瓚の時のように地下道を掘って侵入を試みますが、曹操は投石兵器
霹靂(へきれき:かみなり)車で、櫓を破懐し、曹操も地下道を掘って、
袁紹側のトンネルを破懐するなど頑張った為に、戦争は長引きました。
時間が過ぎる程に少なくなる食糧、曹操は弱気になる
しかし、官渡城をよく守った所で、物量に余裕があるのは袁紹であり、
曹操には余裕はまるでありません。
食糧に不安が生じた、曹操軍からは、密かに袁紹に内通する武将も出てきます。
さらに、曹操不利とみて、豫州では、黄巾賊出身の劉辟(りゅうへき)や
龔都(きょうと)が蜂起、そこに、袁紹の配下となった劉備が合流して背後を脅かします。
この時は沈着冷静な曹仁(そうじん)が出陣して乱を平定したものの、
度々起きる、トラブルに曹操はノイローゼになりかけます。
曹操は不安を抑える事が出来ず、荀彧に向けて手紙を書きました。
「戦況は思わしくない、ここは悔しいが一旦、官渡城を引いて、
軍を兗州に戻し、追撃してきた袁紹を領内で撃破しよう」
荀彧、曹操を叱り、励ます!!
ところが、荀彧からの返事は曹操を突き離すものでした。
「私達は、至弱の兵で至強の兵に当たっているのです。
苦しいのは当たり前ではないですか!
我慢しているのは袁紹も同じここは我慢比べです。
ここで引いたら、我が軍は壊滅しますぞ、天下が取りたいなら、
今は耐え抜いて下さい、必ず勝機がやってきます」
曹操「そうだ!そうだった!袁紹が強いのは百も承知で始めた戦だ、、
苦しいのは、ワシも袁紹も同じ、、耐えるぞ、耐えて、耐えて、
チャンスが来るのを死んでも待ってやる!」
曹操は、思い直し、意地でも粘る決意を固めました。
曹操、こまめに夜襲を繰り返し、兵糧を奪う
食糧がとぼしくなった曹操は、度々、夜襲を掛けて、袁紹軍の兵糧を奪います。
これは、攻撃と食糧補給の一石二鳥でしたが、これがボディーブローのように
効いてきていました。
袁紹軍は、曹操の何倍もいるのですから、戦争が長引くと
食糧消費も激しくなっていました。
そこで、袁紹は、食糧倉庫の襲撃を防ぐ為に、散らばった食糧庫を
ひとまとめにして烏巣に巨大な食糧倉庫を造ります。
沮授は、烏巣を焼き払われたら、戦争に敗れる事を考え、淳于瓊(じゅんうけい)
だけではなく、蒋奇(しょうき)に別働隊を率いさせて烏巣を守備させようとします。
ところが、袁紹は「心配しすぎだ」と言って採用しませんでした。
許攸、曹操の本拠地の奇襲を提案するが・・
この頃、袁紹の部下の許攸(きょゆう)が、袁紹に提案しました。
許攸「私めに、軽騎兵を預けて下されば、許を襲撃して、きっと陥落させます」
しかし、袁紹は、プライドが高く、やたらに上昇志向の高い許攸が嫌いで
これをにべもなく却下します。
さらに、許攸の身内が審配(しんぱい)に逮捕された事もあり、
彼は、袁紹軍に嫌気が差していました。
こうして、許攸は袁紹軍の重要な秘密を胸に曹操軍に走ります。
曹操、許攸の情報を信じ決死の一手に出る
官渡城に投降した許攸を、曹操軍の陣営は半信半疑でしたが、
じり貧の曹操は、許攸の降伏を思いきって信用します。
許攸「袁紹軍の兵糧は、全て、烏巣という所に積んであります。
ここに火を掛けますれば、戦争はお味方の大勝利ですぞ」
曹操は、この提案を受けて得意の奇襲に出ました。
官渡城の兵力を半分引き抜いて夜中に城を抜けだします。
絶対に声をたてないように厳命して、馬の口も縄で縛り、
さらに万が一、目撃されても大丈夫なように旗も袁紹軍のモノに換えました。
そして、暗闇の中を走りに走り烏巣を急襲しました。
淳于瓊は、奮戦しますが及ばず、捕えられ食糧庫には火が放たれました。
何しろ十数万人分の兵糧です、その炎は天を焦がし袁紹の視界にも入ってきます。
袁紹「なんだこれは、、馬鹿な、一体どうなっているのだ・・」
それは、袁紹の野望を跡形もなく消し去る絶望の炎でした。
袁紹、天下の覇者から一夜で転落する
及ばずながら、また出ると負け軍師の郭図が、二正面作戦を提案します。
すなわち、烏巣の救援と曹操の本拠地、許(きょ)の襲撃を同時に行おうと言うのです。
これには、袁紹軍きっての名将、張郃(ちょうこう)が反対して、
張郃「許は簡単には落ちない!この上は全力で烏巣を救援にいくべし」と
主張しますが、これが袁紹に却下されます。
しかもバカバカしい事に、張郃は行きたくもない許を攻撃するように、
袁紹に命令されました。
夜中に陣を出た張郃は、烏巣が焼け落ちたのを見て観念し、
そのまま、許まで行って、降伏してしまったのです。
袁紹の最期・・
兵糧が焼かれれば、もう戦は出来ません、袁紹は慌ただしく兵を引き上げます。
曹操は奇跡の大逆転を演じ命拾いしたのです。
ですが、これによって、袁紹が崩れたのではありません、袁紹は侵略側なので、
領地は無傷でした、民心の動揺もなく、反乱軍を簡単に鎮圧してしまいます。
官渡で勝った曹操も、袁紹を警戒して、あえて、その領地に踏み込みませんでした。
しかし、西暦202年、敗戦のショックで健康を害した袁紹は
血を吐いて倒れ、やがて、亡くなりました。
実は、袁紹の致命的なミスは、曹操に敗れた事ではなく、
死ぬまでに後継者を明確に決めなかった事でした。
その為に袁家の家臣団は、袁紹の没後、袁紹の長男の袁譚派と
異母兄弟で袁紹の寵愛が深かった袁尚派に分裂して内紛を開始。
そこを曹操につけ込まれて、西暦207年までには滅亡しました。
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三国志ライターkawausoの独り言
袁紹は紛れもない英雄でした、強大な公孫瓚をやっと破り、多くの人材を集め
北方四州を制覇した頃には、誰もが袁王朝の建国を考えた事でしょう。
しかし、まさか自分が子分と思っていた曹操が、献帝を擁して優秀な部下を集め
一致団結して自分に立ち向かい、ついには僅かな隙を突いて自分を滅ぼすとは・・
その栄光と没落が表裏一体の生涯は、袁紹死後の一族の悲惨な運命と合わせて、
私達の胸を撃つものがありますね。
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